大学に進学したから行けた憧れのオリンピック|水泳|藤野 舞子さん

藤野 舞子さんインタビュー動画

藤野 舞子さん

profile

東京都出身。
拓殖大学水泳部に在学中、スランプを経験しながらも水泳を続け、
社会人になってからは400m個人メドレーで北京オリンピックに出場。
現在は引退し、母校拓殖大学で大学職員として主に課外活動のサポートを行っている。

Nakanishi

母に背中を押されて決めた大学進学

どのような経緯で進路を決めましたか?

私は拓殖大学の商学部経営学科に進学しました。
元々、高校時代から勉強があまり得意ではなく、水泳の成績もイマイチ伸び悩んでいたので、大学には進学せず、高校を卒業したらスイミングスクールなどに就職しようかと考えていました。
しかし、いくつかの大学から体育推薦の話をいただくことができ、その時に大学水泳で全日本学生選手権、通称「インカレ」と呼ばれる大会があることを知りました。
水泳は個人競技なのですが、インカレではチーム競技があることに興味を持ち、インカレに出てみたいという思いが強くなったんです。
大学に進学するか、就職をするか迷っていた時に母に相談したところ「大学へ行けるチャンスがあるんだったら行ってみれば?」と言ってくれたのがきっかけで、大学水泳だけに興味があって、体育推薦で大学進学を決めました。

大学時代を振り返って、あの時やっておけば良かったと思い返すことはありますか?

横の繋がりをたくさん作ることです。
私の周りの友人も運動部に所属している人が多く、そういった友人と一緒にいることが多かったので、普通の友達をもっとたくさん作っておけば良かったなと思います。
実際、スペイン語の授業を取っていた時にできた友人が「全くスポーツを知らない、水泳を知らない人」だったのですが、私が遠征で授業に出席できない時にノートを貸してくれたり、テスト前には一緒に勉強してくれたり、その時の友人に助けてもらいました。
横のつながりを作っておけば、卒業後に離れ離れになったとしても、困った時に「あの子に相談してみよう」と連絡を取れたり、仕事のことでも声をかけて助けてもらえるので、大学時代は横の繋がりを作るのが一番大事だったなと思います。

「やらされる」から「やる」に変わった大学水泳

大学でのスポーツ記録、現在のスポーツとの関わりを教えてください。

水泳部に4年間所属していました。
学生時代の成績としては、インカレの200mと400mの個人メドレーで4連覇をしています。
大学時代は日本選手権でも優勝経験があるのですが、在学中に挑んだアテネオリンピックの選考会では失敗してしまい、在学中のオリンピック出場は叶いませんでした。
しかし、社会人になってから北京オリンピックに出場することができ、予選落ちでしたが、ずっと憧れていたオリンピックの舞台に出れたことが嬉しかったですし、すごく楽しめました。
社会人になってもずっと水泳選手として泳いできたのですが、ロンドンオリンピックの代表になれなかったことを機に引退して、現在は拓殖大学の水泳部のコーチとして後輩の指導にあたっています。

高校の部活動と比べて大学運動部はどんな違いがありますか?

大学の水泳部はそれまでの部活動と比べると、上下関係がとても厳しかったです。
しかし、そのおかげでどこに行ってもきちんと挨拶ができるようになりました。
高校生までは「やらされるスポーツ」という印象で、指導者がつきっきりになって、怒鳴られて、言われてやるスポーツでしたが、大学では逆に指導者が常にいる状況は珍しいことで、自分で考えながら泳がなければいけなかったですし、自分で決めて進学したこともあり「やるスポーツ」に変わったと感じています。

「自ら考える」ことができるようになったきっかけは何ですか?

「やらされるスポーツ」から「やるスポーツ」に意識が変わったことが大きなきっかけでした。
高校時代は「怒られないように泳ごう」と思うことも多々あったのですが、大学に入って「誰のために泳いでいるんだろう?」と考えた時に、当たり前のことなのですが「自分のためだ」と気づいたんです。
今までと同じではそれは現状維持にしかならなくて、さらに上を目指すには何かを変える必要があると思ったので、練習をどう頑張るか、今日の練習はどうだったか、どう改善すべきかと「自ら考える」習慣と簡単に練習を休んでしまうタイプだったので自信をつけるためにも「休まない・遅刻しない」を心掛けるという2つの取り組みを始めました。
実際、それを続けたことで記録が大幅に伸び、日本代表になることができたので、自信をつけること、自ら考えることは本当に大切なことだと思います。

大きな挫折と仲間が教えてくれた「泳ぐ楽しさ」

大学スポーツで困難だったことは何ですか?

記録が伸びなくなってしまった時が本当に苦しかったですね。
アテネオリンピックの選考会当時、私は日本ランキング1位だったので「絶対に代表になれる」と思っていたのですが、あまりにも緊張してしまい、アテネオリンピックの選考会に失敗してしまいました。
その時にはあまりにもショックで1週間泳げなくて、本当に水泳を辞めようと思うくらい落ち込んでしまいましたね。

その困難をどのように乗り越えましたか?

「やっぱり泳ぐのは楽しい」と思うきっかけを大学の水泳部の仲間がくれたことで壁を乗り越えることができました。
それまで私は大学水泳部ではなく、スイミングスクールの方で練習をしていたのですが、同期の水泳部の子が「ゴールデンウィークに水泳部で合宿をやるからおいでよ」と誘ってくれたんです。
その合宿の中でみんなと練習をしているうちに「やっぱり泳ぐのが好き、楽しい」ということに気づき「夏の試合でまた優勝したい。やっぱり私はオリンピックに行きたい」という想いが強くなったことで、水泳を続けることができました。
アテネオリンピックの選考会に失敗した時が、私の水泳人生の一番大きな挫折だったと思うのですが、それを救ってくれたのが大学水泳部の仲間で、水泳は楽しいと思い出させてもらったおかげで、私は28歳まで水泳をずっと頑張ることができたと思っています。

自分で決めたら、最後までやり切る

現在のお仕事はどんなことをしていますか?

現在は拓殖大学の学生支援室で働いていて、学生の全般的な相談に応じることが主な仕事の内容です。
また、課外活動のサポートも行っていて、団体スポーツに限らず、文化局などのリーダー研修会や課外活動を学区内で行うにあたっての登録等の説明など、大学全般の課外活動に関わっています。

学生の単位取得がうまくいっていない子、つまずいてしまう子の支援をする際、どんな言葉をかけていますか?

相談を受ける子の多くは「学校に行かない、行けない」子が多いのですが、その子たちには少し厳しいかもしれないのですが「自分で決めたことなんだからしっかりとやりなさい」と伝えています。
私自身、大学進学も自分で決めたことだったので「何としてでも卒業しなければ」と勉強が苦手でもとにかく授業に出席できる時には出席して、できる努力をしようと思って大学4年間を乗り越えました。
実際、世界大会の代表になると、遠征で授業に出られない期間もあったのですが、それでも行ける時は必ず授業に出て、一生懸命ノートを取ってテストの準備をしていました。
ですので「まずは最低限授業に出てみよう」と声をかけるようにしています。
テストで100点を取るのは全員ができることではありませんが、授業に出ることは誰もができることなので、まずは授業に出てノートを取り、わからないことがあれば、先生に聞きに行くことが必要だと伝えています。

これから大学へ進む高校生へ

学べるチャンスは基本的に大学生が最後になるので、大学に行けるのであれば、大学進学はした方がいいと思います。
進路についても、競技成績にしても、大学生の時にしかできない経験もありますし、先の人生を考えると、大学4年間よりも働く期間の方が長いので、その大学にいる時間を使って自分のやりたいこと、やりがいを見つけるのも良いことです。
また、大半の選手は大学4年間でスポーツを引退するので、卒業後、競技を続けるのは難しいかもしれません。
なので、自分が今までやってきた集大成を見せるための「やり切る」4年間だと考え、悔いのない競技人生を終われるような4年間にしてもらえると良いのではないかと思います。

 

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